見えない未来にみせるVISION -HOUSE VISION2-

はじめに

2016年の8月、HOUSE VISIONで感じたあのワクワクを感じたのはいつぶりだろう?あのワクワクを前にも感じたことがあった。未来が楽しみになるような、私たちの生きて行く先の未来には希望が満ちているような、ワクワク。私が以前にあのワクワクを感じたのは、2010年の上海万博だった。

HOUSE VISIONは「特別な時間の終わり」を生きている私たちの、特別な時間が終わったあと、従来の家の姿を未来に描けなくなった私に未来の家とそして未来そのものを見せてくれた展示会だった。

テレビの中の、未来に見えない「家」の姿。

「CMで人(OLさん、家族)が帰ってくる家に住める未来が見えない。」これは私がHOUSE VISIONに行く数日前にTwitterでつぶやいた言葉だ。その時私が見たのはメイク落としのCMで、帰宅したOLが帰宅するなりリビングのソファにバタンと寝転び、メイク落としが含まれたシートでソファに寝転んだまま濃いメイクを落とすというものだった。私はメイクがよく落ちることに興味を持ったのではなく、そのソファがとても大きいことが、その時急に気になった。成人女性が全身をごろんと預けることができるソファ、かなりでかい。身長が160cmだとしても、2m以上ある。幅も腰と背中をたっぷり預けられるほどある。背景を見ればもちろん部屋いっぱいがソファで窮屈なんてことはなく、そのでかいソファを置いてもあまりある程の部屋の広さがある。どんだけ広い部屋に住んでるんだこのOLは。そしてどんな仕事すればそんな家に住めるんだ。このCMはおそらく私の年齢層の女性をターゲットにして作られている。私と同じ年齢くらいの働く女性はみんなこんな広い家に住んでるのか。ついでに言えば、夜用生理用ナプキンのCMで女優さんが寝返りを打つ超大きなベッド(寝室)とか、脚が細くなる靴下を履くためだけに大き過ぎるベッドとか、そんな家にみんな住んでるのか?!

まあ、東京だし、もちろんそんな家に住んでいる人もいる。みんながそんな広い家に住んでるなんでことはない。その家の姿は、「そんな生活したいでしょ?そんな生活素敵でしょ?ね?この商品買おうよ。この商品買ったらそんな生活できる(かも)よ。」というCM戦略だ。それに対して、「OLさんでこんな広い家に住むよりも、そんな広い家に住めるお給料を今はもらっているならなおさら貯金をしたほうがいいんじゃないか?」などと勘ぐってしまうのが現実的な20代の考えてしまうことだ。

OLさんでさえCMが描く世界ではこんな大きな家(ごろんと寝ころがれるリビングがあって、別に寝室もあるので最低でも1LDK、しかもLが広い。)に住んでいるので、CMの世界の「家族」はもっともっと大きな家に住んでいる。もうマンションではない、大体庭付き一戸建てだ。「ただいまー」と家族が帰って来るのは広い玄関。お父さんが休日に料理(ポ○酢で炒める料理かレトルトの箱を使った何か)を振舞うのは広いキッチン。友達を呼んでカレーを食べるかカ○ピスを飲むための広い庭。

そんな未来、どこにあるんだ。どんなふうに仕事をして、どんなふうにお金を稼ぐとそうなるんだ。私の未来にはCMで家族とかOLさんが帰ってくる家に住む未来はさっぱり見えないのだ。

そして、きっと、ただ今まで通り、歩いた先の未来に必ずそんな家に住める未来が待っているなんて思っている人は、減ってきているのではないかと思う。

ワクワクする未来を魅せる場所『万博』

話は2010年に遡る。私は中国・上海の『上海万博』会場にいた。

中国全土から日本でのイベントでは想像もできないような数の人々が上海の万博会場に集まり、「熱狂」している。バブルの後の日本に生まれた私には、見たことがない光景だった。きっと1970年の大阪万博はこんな熱狂だったのだろうと思わずにはいられなかった。各国のパビリオンに入場するための3時間待ちは当たり前の大行列。炎天下をもろともせずぎゅうぎゅうに並ぶ人々。少しでも列に隙を作れば割り込まれる緊張感。それほどまでにパビリオンに入りたいという熱い意思。人々の目は輝いている。上海万博に来ていた人々の気持ちを一言で表せば「ワクワク」していたように思う。私もとても「ワクワク」した。上海万博という超巨大なイベントの空間は人々の「ワクワク」した気持ちで満ち溢れていた。

「ワクワク」とはなんだ、と言えばそれは未来を楽しみにする気持ちである。未来への期待である。こんな未来が私たちの生きる先にあるんだという、未来を待ちきれず「ワクワク」した、それが私の『万博』体験だった。

『万博』はVISIONを見せるもの

そもそも万博は「万国博覧会」、今その国にある美術品や珍しいもの、つまりその国の国力の高さを他の国に見せつけることが目的だった。その目的は次第に、国民への文化的な教育に変わっていき、アメリカの万博では展示するものは科学技術になっていった。今、大阪万博で珍しがられた技術は当たり前のものになっている。ではこれからの「万博」で見せるものはなんだろう?それは「VISION」であると思う。VISIONとは「未来像」だ。未来とは、虚構とは違う。地続きの未来に存在できるものだ。いまを生きる人々にワクワクする未来像を見せること、それが万博の役目であると思う。

HOUSE VISOINは『万博』である。

すでに書いているように、私はCMという消費社会の提示する「家」や、過去の栄光をずるずると引きずる地方の工務店の持ってくる家賃収入が安定する賃貸住宅みたいなモデルにもう未来の姿を見れなくなっていた。そんな私がHOUSE VISIONで久しぶりにワクワクした。このワクワクはどのくらいぶりだろう?と遡った時に、2010年の上海万博を思い出したのである。

HOUSE VISIONのディレクター原研哉さんは自身のツイッターアカウントでこう言っている「HOUSE  VISIONはただのおもしろ住宅の展示会ではない。」私はこの言葉が私をワクワクさせ、HOUSE VISIONが『万博』である理由を表現した一言だと思う。「おもしろ住宅」的な非現実を味わい尽くしたければ電車でもう少し先の「舞浜」に行けばいい、いま本気で住める家を知りたければ手前の「国際展示場」駅で降りて展示会に行けばいい。HOUSE VISIONが見せるのは少し先に実現するかもしれない未来の家の姿なのだ。私たちが歩いた先に、いままでの道から階段を登れば現れるかもしれない未来の家の姿なのだ。だから私たちはワクワクする。このままの未来の先にもうこれまでの家の姿が見えなくなったいま、こんなふうに階段を登ればこんな未来もあるよ、と先見の明を持つ建築家たちが提案をしてくれているのだ。それはもちろん、ワクワクするように「魅せ」方を加えられている分、現実の未来ではもっと地味な姿で現れるかもしれないが、HOUSE VISOINで提示されている家々の機能を活かすことはできる。

HOUSE VISONが「夢」のお話しではないことは、1軒目の住宅がクロネコヤマトの冷蔵庫のある家だということにとてもよく現れていると思う。1軒目が一見地味な超現実的なこの家というのが、HOUSE VISIONが「おもしろ住宅の展示会」ではないということの表明だと思う。「おもしろ住宅」を期待した来場者は1軒目のこの宅配便を受け取る冷蔵庫がある玄関、という家を通ることで、良い意味でクールダウンするように思う。超現実の未来を真剣に考えているということの表明であると思う。

「特別な時間の終わり」以降を生きる私たちの未来の家

私はHOUSE VISIONで「ワクワク」した。ワクワクしていたのは私だけではない。会場にいる人々がとてもワクワクしていたように思う。

この展示が2011年以前であったら、人々はこんなにワクワクしなかったのではないだろうか。

上海万博で目を輝かせる中国の人々を見て、私は思った。当時、日本でこんない人々が熱狂して詰め掛け、目を輝かせて訪れたイベントがあっただろうか。当時、日本の人々の目はどこか冷めているように感じた。何か新しいものを見ても、「あーはいはい、こんなかんじですね。」と新しい技術の誕生が当たり前になりすぎていた。すでに発展し尽くしていて、このままの道を歩いていけばまあ生きていけるんじゃないかという当時の日本の空気。今は一部の人々の理想像でしかないCMの中の家の姿は、当時はあまり浮くことなく受容され、まあそんな未来かなと思われていたように思う。

上海万博の次の年、そんな日本の未来像が多くの人から消えたことは特に私が説明する必要もないほど、明らかなことだろう。

なにかあったらどんなものも簡単に壊れるという映像を見せられ続けてきた世代にとって、どんなことがあっても壊れない家みたいなものはもうそれこそフィクションだと思える。6才でコンクリートの高速道路が倒れ、15才で高層ビルが崩壊し、22才で街は海に飲み込まれていった。誰かの家が、生活が壊れていった景色を見た機会は、竜巻、雪崩など、もっともっとある。

常に揺れ続ける地面の上で生きる私たち。私たちの姿はゲームセンターのコインゲームのようだと思う。揺れ続けるゲーム台の上でも絶妙なバランスでコインは均衡を保ち続けている。上から1枚のコインを入れると、バランスを崩してコインが下に落ちていく。場所がよければたくさんのコインがざざっと落ちていく。たとえ自分が落ちることなく台の上に乗っていたとしても、落ちていったコインの振動は常に感じている。いつか自分も落ちるかもしれない、でもその事実をあまり考えないように、揺れ続ける地面の上で生活している。台の揺れは必ずしも地震や津波の比喩ではない。地震や津波、様々な事象が絡み合って、どんな理由で次は自分や自分の近くにいる人が落ちていくかわからない。

 『私たちに許された特別な時間の終わり』は劇作家・岡田利規が2007年に出版した2作の小説をまとめた本のタイトルだが、2011年以降、本当にこのタイトルの言葉がしっくりくる世の中になってしまったと思う。CMに登場する家は、戦後の復興から2011年までのほんのわずかな「特別な時間」のみ成立する「当たり前」だったように思う。

責任を持って終わらせることができそうな家

そんな揺れ続ける地面の上に、私はやっぱり、大きな大きな家を建てる未来は見えないのだ。玄関は大きくて、部屋がいくつもあって、庭には池もあってなんて。金銭的に、後世に残せるほど価値のある家を建てることが出来るとも思えない。古くなる程価値のなくなるただただ大きな家は空き家になり、自然にも還っていくこともない、次の世代にも必要のない負の遺産になるのではないか。

そんな時、HOUSE VISIONにあった家を思い返すと、「なんだか壊せそう」と思う。地震、津波、火山の噴火、どんなものでも壊れるのだとしたら、なにか起こるとなった時に、自分たちの力で壊せる家、畳むことができる家、終わらせることができる家のほうがずっと現実的なのではないかと思う。

HOUSE VISOINにあった家はどれも自分で壊せそうだと思った。panasonicの家のモチーフは三匹の子豚の藁の家だった。坂茂さん設計の家の壁はなんとチャックで外せるテントだった。その家に置かれている水回りはキッチン、風呂、トイレなどの水回りが全てひとつの家具になったものだった。家を建てる時に複雑な配管工事もいらないし、それはつまり、家を畳むときも処理は難しくないということではないだろうか。

羽海野チカ『ハチミツとクローバー』8巻に印象深いシーンがある。地元の北海道の家に帰りたそうに見えたリカを真山が北海道の実家に連れていく。着いた先に家はなく、元は家があったであろう間取りの跡だけが残されている。リカは言う「ここを去る時はみんなこうするのよ。」この家に暮らしていたリカの父亡き後、家を壊したのはリカの元夫・原田だと言う。

土地を去る者は家を壊して出ていく。そういう習慣がもしかしたら過去、一般的だったのかもしれない。土地を0に戻してその土地を去ること。

サステイナブル、持続可能な社会というものの考え方には、1世代で責任を持って終わらせることができる、という意味もあるのではないかと思う。何も残さない、次の世代は0からスタートする。そんな持続可能もあるのではないか。

永遠にその土地に暮らすことができる保証なんてないかもしれない。「特別な時間の終わり」を生きる私には、なにかあったら抗うこともできず壊れてしまう、または自分で絶対に壊すことのできない大きな家に住む未来よりも、壊せそうな家にこそ「現実」を感じるのだ。

未来が見えない時代に「見える」未来の家

こんなことを書いているとなんだかとてもかわいそうな若者のように自分が思えてこないこともない。一般的な道に沿って歩く人生の教科書も照らし合わせたら、完全に道から外れているし、「理想」の未来を描けない、たどり着けないかわいそうな若者だ。でも、もうその人生の教科書が変わっているのだ。世界には様々な場所があり、一つの場所に固定されるよりも移動を続けることで享受できる様々な文化、食、自然があることを知っている。動くことができない不自由よりも、いつでも移動できることのほうが自由であると感じるのだ。

たとえ未来が変わっても、屋根があって壁がある「家」という場所に住み続けることは変わらないと思う。ただ人々の生活や生き方が変われば「家」の形や機能は変わっていく。「家」は生活であり、生活はLIFE、生きることそのものである。家の未来を見せることは生きることの未来を見せてくれることに等しい。

VISIONには「先見の明」という意味もある。「将来のビジョン」とかそういう言葉はなんだか恥ずかしいと思ってしまう所があったけど、ビジョンを見せるってかっこいいなあと、VISIONって良い言葉だなあと思った。

国が集まって行う大規模な万国博覧会ではないが、今日本に生きる私をワクワクさせて、確かな現実の先の未来を見せてくれた、HOUSE VISIONという『万博』に、私はとても感謝している。


<参考文献>

・デザインのデザイン/原研哉(岩波書店 2003)
・わたしたちに許された特別な時間の終わり/岡田利規(新潮社 2007)
・ハチミツとクローバー8/羽海野チカ(集英社 2005)